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創業から現在までの変遷
池田酒造には、酒蔵にとって生命線である醸造を中断していたという経験があります。
このことは、今後の池田酒造のめざすべき姿を考える上で必ず考慮しないといけないことだと考えます。以下に、醸造の中断を含めた創業から今日までの池田酒造の変遷をご紹介します。

■ 激動期
創業は明治12年。池田家12代目、池田七郎兵衛が現在の地に酒造場をつくりました。
その後、13代目池田邦蔵が事業を拡大し、現在の池田酒造の礎を築きました。当時は丁稚や使用人を抱え、豊かであったと聞き及んでおります。
また、中丹地域の「三丹名酒人気投票」において最優秀賞を獲得するなど、まさに、順風満帆な時期でありました。
昭和初期の池田酒造の様子
14代目池田太十郎は政界に繰り出し、東雲(しののめ)村の村長や府会議員などを務めました。戦後も順調に事業を拡大していきましたが、昭和30年代に入ると伏見や灘の大手酒造会社がこの地域へも販路を拡大してきたため、それまでの問屋卸から小売店へ直接卸す流通形態にシフトしていきました。昭和40年ごろが生産量としては最盛期で、約1,000石ほどあったと聞いています。
その後は、大手メーカーの商品に押され、ビールの台頭もあって当社の生産量は下降線をたどります。時期は定かではありませんが、この頃、大手メーカーへの桶売りを始めましたが、自社での直接販売の売上が下がる中、桶売りの占める割合が高くなってきました。昭和の末頃になると、桶売りの販売先が自社醸造にシフトしたため杜氏を抱えての酒づくりが困難になり、昭和62年に断腸の思いで自家醸造を休止しました。
■ 依存・模索期
自家醸造休止後は、同じく大手に桶売りをしていた酒造会社から桶買いをするようになりました。これは、酒質が近かったためでもあります。バブル経済全盛の時代、清酒においても吟醸酒や純米酒など、それまでの一級酒・二級酒だけではない、こだわりを持った製法でつくられる酒が脚光を浴びるようになりました。
池田酒造においても、それまでは3、4アイテムであった商品を順次拡大することとなり、「舞鶴」の知名度を活用しようと、「まいづるの酒」をキーワードに「赤レンガ」「幽斎」などの商品を展開していきました。この時期この戦略が功を奏し、NHKのドラマ(朝の連続テレビ小説)のタイトルにちなんだ「ええにょぼ」がヒット商品になるなどしましたが、舞鶴のイメージに固執したため、肝心の「池雲」ブランドが相対的に弱体化し、しっかりとした広告戦略も有していなかったこともあり、特に、若い世代の知名度が大きく低下することとなりました。また、この時期、桶買いをしていることもイメージダウンにつながっていったと考えられます。この時期は、酒づくりは桶買いに、商品イメージは「舞鶴」に依存しつつ、めざすべき方向を模索していた時期であったといえます。
■ 自立期
平成15年頃から当社の池田孝子が、醸造試験場での研修を幾度となく受研し、桶買い先の杜氏に教えてもらいながら醸造の勉強を続けてきました。
平成18年に17代目池田恭司(現専務取締役)が当社に入社したのを契機に、試験的に自家醸造を復活させました。
以前使っていた醸造設備はタンクを除いてほとんど使えるものがなく、少量生産用の設備を最小限揃えて、ほとんど手づくりの酒づくりからスタートしました。試行錯誤を繰り返しながらの酒づくりでしたが、国税局の酒類鑑定官の技術指導などにより酒質も向上し、平成20年秋には、純米酒「池雲」の本格発売にこぎ着けることができました。そして現在、純米吟醸酒、純米酒、吟醸酒は完全自家醸造となり、平成22年には大吟醸酒を仕込みました。
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